総説
1.サイバーセキュリティと法制度
(1)サイバーセキュリティ基本法の制定前の状況について
サイバーセキュリティという概念は、法制度の領域から生成・発展した概念ではなく、サイバーセキュリティ基本法が制定されるまでは、わが国の法令において「セキュリティ」という単語を用いたものはなかった。ただ、平成12年に制定された高度情報通信ネットワーク社会形成基本法(平成12年法律第144号)1第22条における「高度情報通信ネットワークの安全性及び信頼性」という文言の中に、情報セキュリティを読み取ることが可能であった。
情報セキュリティとは、一般に「情報の機密性(Confidentiality)、完全性(Integrity)及び可用性(Availability)の3要素を維持すること」ということができ、この3要素の各々の頭文字を取って「情報のCIA」ということもある。
機密性とは、情報に関して正当な権限を持った者だけが、情報にアクセスできることをいう。機密性が損なわれた場合の典型例として不正アクセス等が挙げられる。
完全性とは、情報に関して破壊、改ざん又は消去されていないことをいう。完全性が損なわれた場合の典型例として情報の不正改ざん等が挙げられる。
可用性とは、情報に関して正当な権限を持った者が、必要時に中断することなく、情報にアクセスできることをいう。可用性が損なわれた場合の典型例としてシステム障害による利用不能等が挙げられる。
このようなCIAの概念を用いたものとしては、1992年に経済協力開発機構(OECD2)が採択した「情報システムセキュリティガイドライン(Guidelines for the Security of Information Systems)」(以下「1992年ガイドライン」という。)が挙げられる。同ガイドラインにおいては、情報セキュリティの目的について、「情報システムに依存する者を、可用性、機密性、完全性の欠如に起因する危害から保護すること」と定義している3。
これを踏まえ、情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS)に関する国際規格であるISO/IEC 27001・同27002、これを日本産業規格化したJIS Q 27001・同27002にも情報セキュリティに関する同様の定義が置かれている。
(2)サイバーセキュリティ基本法
平成26年にサイバーセキュリティ基本法が制定された。具体的な内容については後述するが、情報、情報システム、情報通信ネットワークという3つの客体に着目して「サイバーセキュリティ」が定義されていることをはじめ、わが国のサイバーセキュリティ政策を推進するための様々な規定が置かれた基本法としての役割を有している。
ただし、同法は基本的に民間の企業等に対する具体的な権利・義務等を定めるものではなく、また、同法は、デジタル社会形成基本法と相まって、サイバーセキュリティに関する施策を総合的かつ効果的に推進するもの(同法第1条)であるが、現状において、これらの法律も含め、サイバーセキュリティに関して民間の企業等に対する権利・義務等を通則的に適用する法令が存在しているものではない。
一方で、個別の法令においては、サイバーセキュリティに関わる規定が存在しており、特に情報の安全管理に関する規定を置く法令が増加する傾向にある。本書においては、個別に存在するサイバーセキュリティに関する法令について解説を加えていく。
(3)サイバーセキュリティ対策と法令・ガイドライン
サイバー攻撃が複雑化・巧妙化する今日において、各々の企業がサイバーセキュリティ対策をとることの重要性は増加している。各々の企業は、企業の規模や業態、時代背景、取り扱う情報の種類と適用される法令等に基づき、必要なサイバーセキュリティ対策をとることとなる。
サイバーセキュリティに関しては、関係する法令を遵守する必要があることはもちろん、その他、国内外を問わず、様々な政府機関、民間の団体や企業等による様々なガイドライン等が発出されている。また、前述のとおり関係する国際規格も存在する。
一般論として、IT・ICTを活用することの利便性と、セキュリティはトレードオフの関係にある。セキュリティを万全に整えようとすればするほど、利便性は落ちることとなるため、企業としては、セキュリティ上の脅威を含めてリスクマネジメントを行い、必要なセキュリティ対策を選択することとなる。
以上を参考としながら、各々の企業においては、必要とされる具体的なサイバーセキュリティ対策を行うことが望ましい。
2.本書で取り上げる主な法律について
- サイバーセキュリティ基本法(平成26年法律第104号)
- 「サイバーセキュリティ」の定義を置くとともに、基本法として、わが国のサイバーセキュリティ政策を推進するための様々な規定を定めている。
- 民法(明治29年法律第89号)
- 契約に関する規律や、不法行為に基づく損害賠償請求等を規定している。
- 会社法(平成17年法律第86号)
- 株式会社の取締役に対し、サイバーセキュリティを確保するための体制を含む内部統制システム構築義務を課している。
- 個人情報の保護に関する法律(平成15年法律第57号)
- 個人情報の取扱いに関する基本法であると同時に、個人情報取扱事業者及び行政機関等における個人情報等の適正な取扱いに係る一般法としての規律を定める。当該義務の中に、個人情報の不適正取得の禁止や、個人データ及び保有個人情報の安全管理措置義務、個人データの漏えい等報告義務、本人通知義務等が含まれる。また、個人番号を含む個人情報(特定個人情報)については行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律(平成25年法律第27号)が規律を定めている。
- 不正競争防止法(平成5年法律第47号)
- 不正競争の防止を目的の一つとしており、営業秘密や限定提供データの保護や、技術的制限手段の無効化、回避の禁止等を定める。
- 著作権法(昭和45年法律第48号)
- プログラムを含む著作物の保護と複製権をはじめとする著作権等について規定している。
- 労働基準法(昭和22年法律第49号)
- 労働基準を定める法律であり、企業の就業規則に関する規定などを置いている。その他、労働契約に関する基本的な事項を定める労働契約法(平成19年法律第128号)等がある。
- 電気通信事業法(昭和59年法律第86号)
- サイバー空間における活動の基盤となるインターネットサービス等の電気通信事業に関する諸規定や、通信の秘密等を規定している。
- 電子署名及び認証業務に関する法律(平成12年法律第102号)
- 一定の条件を満たす電子署名を手書き署名や押印と同等に通用する旨等を規定している。
- 情報処理の促進に関する法律(昭和45年法律第90号)
- 情報処理安全確保支援士や新設されたDX認定制度に関する規定、独立行政法人情報処理推進機構(IPA)の業務としてサイバーセキュリティに関する講習や調査等を措置している。
- 国立研究開発法人情報通信研究機構法(平成11年法律第162号)
- 国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)の業務においてサイバーセキュリティに関する研究開発等、国や自治体の職員を対象とする演習の「CYDER」の実施を定めるとともに、時限的な業務としてIoT機器の調査を行う「NOTICE」に関する規定を措置している。
- 刑法(明治40年法律第45号)
- 不正指令電磁的記録に関する罪(いわゆるウイルス罪)をはじめとするサイバー犯罪を処罰する規定を含む刑罰が規定されている。
- 不正アクセス行為の禁止等に関する法律(平成11年法律第128号)
- 不正ログインといった不正アクセス行為や、いわゆるフィッシング行為を処罰する旨が規定されている。
3.本書の構成について
| Q1 ,Q2 | サイバーセキュリティに関する基本法として、サイバーセキュリティ基本法における「サイバーセキュリティ」の定義及び同法の概要を解説するものである。 |
| Q3 ~Q6 | 会社法を中心に、経営体制の観点から取締役が負う義務(内部統制システム構築義務)や、当該体制が適切であることを担保するための監査や情報開示について解説するものである。ここでの考え方は、企業以外の組織、たとえば官公庁、医療法人などにもおおむね妥当する。 |
| Q7 ~Q9 | 企業がサイバーセキュリティインシデントに直面した際に必要となる法的な対応やそれに準ずる対応、その他必要となる措置や関係者について解説するものである。 |
| Q10 ~Q19 | 個人情報の保護に関する法律等を中心に、個人データの安全管理措置を軸として様々な論点を解説するとともに、クレジットカード情報、労働者の心身の状態に関する情報、マイナンバーについて解説を加えるものである。 |
| Q20 ~Q25 | 不正競争防止法を中心に、営業秘密の保護、限定提供データ、技術的手段の回避行為・無効化行為に関して解説し、その他知的財産法について補足するものである。 |
| Q26 ~Q34 | 労働関係法令を中心に、企業においてサイバーセキュリティ対策を行うに当たっての組織的対策・人的対策について解説するものである。 |
| Q35 ~Q42 | 電気通信事業者に対する規律や、IoT機器に関する法的論点、その他重要インフラ分野や関連する諸分野(ドローン、モビリティ等)について解説するものである。 |
| Q43 ~Q47 | 契約を軸としつつ、電子署名、データ取引、システム開発、クラウドサービス、サプライチェーンなど、サイバーセキュリティに関わる論点を解説するものである。 |
| Q48 ~Q51 | サイバーセキュリティに関する資格等を対外的に示す法的な仕組み(情報処理安全確保支援士等)や情報セキュリティに関する第三者認証、国際規格等について解説するものである。 |
| Q52 ~Q59 | その他サイバーセキュリティに関わる各論を解説するものである(リバースエンジニアリング、暗号、輸出管理、情報共有、脅威インテリジェンス、データ消去等)。 |
| Q60 ~Q69 | サイバーセキュリティインシデントに対する事後的な対応等(ランサムウェア対応、デジタル・フォレンジック、サイバー保険等を含む)を解説するものである。 |
| Q70 ~Q75 | サイバーセキュリティに関する紛争が民事訴訟となった場合に留意すべき手続等について解説するものである。 |
| Q76 ~Q83 | サイバーセキュリティに関係する刑事法について解説するものである。 |
| Q84 ~Q87 | わが国の事業者がサイバーセキュリティ対策を行う上で留意すべき主な海外法令や条約等について簡単な解説を加えたものである。 |